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フィレンツェの最後の晩餐 その1 (再掲2006-10-14 06:30の記事) [1400年代 Quattrocento]

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アンドレア・デル・カスターニョ「最後の晩餐」1447年

Andrea del Castagno. 1423, Castagno-1457, Firenze

サンタポッローニア修道院食堂

1447年、アンドレア・デル・カスターニョが、フィレンツェのサンタポッローニア修道院食堂に描いた「最後の晩餐」。レオナルド・ダ・ヴィンチがミラノで「最後の晩餐」を描く50年ほど前のことです。

壁面全体はこんな感じです。

Cenacolo  affresco, 453 x 975 cm  Sant'Apollonia, Firenze

最後の晩餐の上部には、左からイエスの受難の3つの場面「復活」「磔刑」「十字架降下」と、宙を舞う天子達が描かれています。


3つの場面を「トスカーナの風景を絵画史上もっとも巧みに演出したもの」(ペルティ)と評されるトスカーナ風景が結びつけています。残念ながら保存状態は良くありませんが。


「キリストの受難」

壁画のこの部分は、壁から剥離し修復された後、元の壁に戻されています。


そのさい壁画の下から現れたシノピア(褐色の線描による下絵)が同じ部屋に展示されています。

アンドレアの素描家としての非凡な側面を知る事が出来る貴重な資料です。


「キリストの受難のシノピア」Synopia






同上、左上天使の部分

「復活」の場面はピエロ・デッラ・フランチェスカの同主題のフレスコ画と良く似ています。

比べてみてください。






アンドレアの「キリストの復活」



ピエロの「キリストの復活」1463-65年

Resurrection Piero della Francesca

(b. 1416, Borgo San Sepolcro, d. 1492, Borgo San Sepolcro)

affresco/tempera, 225 x 200 cm
Pinacoteca Comunale, Sansepolcro

アンドレア(カスターニョ)の作例の方が10数年早いので、ピエロが影響を受けたと考えるのが自然です。

アンドレアの「最後の晩餐」に戻ります。

壁画の中央部分です。


手前はユダ、テーブルは左から聖ペトロ、イエス、使徒(福音記者)ヨハネ※。

足元に〈名札〉が描き込まれているので分かりやすい。

※12使徒のひとりヨハネは、別人である洗礼者ヨハネと区別するために「使徒ヨハネ」あるいは「福音記者ヨハネ」と呼ばれます。福音記者とは「ヨハネによる福音書」(第四福音書)の著者と言う意味です。

第四福音書の中に登場する「弟子たちの一人でイエスの愛しておられた者」が、その福音書の著者自身であり、使徒ヨハネであると信じられているからです。

「ヨハネによる福音書」から最後の晩餐の場面を引用します。

「…イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。


『はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている』

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。

イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。

シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。

その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま『主よ、それはだれのことですか』と言うと、イエスは『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。

それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。

ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは『しようとしていることを、今すぐ、しなさい』と彼に言われた。

座に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。

ある者は、ユダが金入れを預かっていたので『祭りに必要な物を買いなさい』とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。

ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」

ヨハネによる福音書 (第四福音書)第13章より


日本聖書協会刊「聖書 新共同訳」

最後の晩餐の当事者の一人、ヨハネ(=イエスの愛しておられた弟子)自身による貴重な歴史的証言です。

残念ながら現代の聖書学では、この福音書の著者と使徒ヨハネは別人とされているのですが。

この場面の後、イエスは弟子たちと一緒に「キドロンの谷の向こう」の「園」または「オリーブ山」へ出かけ、一人捕らえられます。

アンドレア・デル・カスターニョは日本ではあまり馴染みの無い画家かも知れません。


彼のその他の代表作も見てみましょう。

「聖三位一体、聖ジェローラモ(ヒエロニムス)と二人の聖人」1453年


サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂

The Holy Trinity, St Jerome and Two Saints affresco
SS. Annunziata, Firenze

苦行者としての聖ヒエロニムスは、酷薄なまでの厳しい写実で表現されています。


上方の聖三位一体=父(主)と子(イエス)と聖霊(白い鳩で表される)=は短縮法(遠近法の一種)の好例です。

「それはじつに見事で短縮法もそれ以前の画家達がなしえなかったほど巧みに、いっそう現代的に扱っているゆえに、アンドレアは高い称賛に値するのである」(ジョルジョ・ヴァザーリ)。

「聖ユリアヌスとキリスト」1453年

サンティッシマ・アヌンツィアータ聖堂

St Julian and the Redeemer. affresco
SS. Annunziata, Firenze

犯した罪を誠実に悔いる若者として描かれた聖ユリアヌスと祝福を与えるイエス。

聖人の左右にはトスカーナ風景。

貴族の家に生まれたユリアヌスが犯した罪は両親殺し。
両親を不審な侵入者と誤解した結果だったのですが、不幸な過失と片づけるには余りにも大き過ぎる罪です。
彼は城を出て、妻と共に旅人、貧しい人々、病人を献身的に看護する生涯を送ります。

この聖ユリアヌスを画家アンドレア自身と重ね合わせて、画家のある悔恨の念を読み取ろうとする見方があります。
それはひとつの伝説が作り出した先入観の故なのですが。アンドレアには暗く陰鬱なイメージがつきまとってきました。処刑された謀反人を描いて「首吊りのアンドレア」のあだ名で呼ばれたのはまだ少年時代のこと。

きわめつきは前出、ジョルジョ・ヴァザーリ Giorgio Vasari(1511-74)の「画家・彫刻家・建築家列伝」(Le vite de' piu eccelenti pittori, scultori e architettori 1550)。

「罪深き闇が人徳の輝きを覆い尽くした」冷酷な人間で、嫉妬心からライバルの画家、ドメニコ・ヴェネツィアーノ(Domenico Veneziano 1410-61)を殺害したとされています。そのためアンドレアは残忍な殺人者と信じられていたのです。1878年、歴史家ガエターノ・ミラネージによって「ドメニコ殺人事件」の冤罪が晴らされるまで。実はそれはもともと不可能な「事件」だったのです。「被害者」ドメニコが死んだのは1461年。「殺人者」アンドレアはすでにその4年前の1457年、フィレンツェで亡くなっていたのですから。

アンドレアの壁画で一番好きなのはこれ。

「ニッコロ・ダ・トレンティーノ騎馬像」


サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂(ドゥオーモ)、フィレンツェ

Monument to Niccolò da Tolentino. 1456. affresco
833 x 512 cm
Duomo, Florence

ニッコロの大きな帽子と、優しい馬の目。



ドゥオモ


【info】


アンドレア・デル・カスターニョの「最後の晩餐」

フィレンツェ、サンタポッローニア修道院食堂

Cenacolo di Sant'Apollonia, Firenze

メディチ=リッカルディ宮殿脇のvia de Ginoriを北に進みます。

通りの名前がvia S. Galloに変わって、via ⅩⅩⅦ Aprileにぶつかる角にあります。

サン・マルコ広場の西側、すぐ側です。

見学は火曜〜日曜の午前中。月曜と祝祭日は休み。


Cenacolo di Sant'Apollonia


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